【プライバシー権:早稲田大学大隈講堂での江沢民中国主席(当時)の講演会開催の際に、同大学から警視庁に対し、警備の必要のために、参加希望学生のリストが提供された事件】

損害賠償請求事件

東京高裁平成14年1月16日判決

(最高裁HP、裁判例検索)

BF6C0E3C15677FDA49256B5A001C310 (courts.go.jp)

1 ポイントは何か?

⑴ 早稲田大学個人情報の保護に関する規則

⑵ OECDガイドライン

⑶ データ管理者の責任

⑷ 損害の発生

2 何があったか?

⑴ 平成10年、江沢民中国主席の来日に当り、早稲田大学が、同主席を招いて講演会を開催した。

同講演会は、同大学の学生に対する教育活動の一環として企画された。

江主席は、国賓として、最大限の配慮が必要であった。警視庁、外務省及び中国大使館からも、同大学に対し、警備を厳重にするようにとの要請があった。

同大学の学生の参加を求め、約1400名の学生が参加を申し出た。学生証を確認し、参加者名簿に氏名、学籍番号、住所および電話番号を記載させ、参加証を交付し、注意事項を配布した。

⑵ 同大学は、警視庁に警備を依頼した。警視庁は、参加者名簿の提出を求めた。同大学は、本件名簿の使用後はこれを廃棄することを条件に、同名簿の写しの提出に応じた。招待者、教職員およびプレス関係者の参加者名簿の写しも交付した。

同大学は、参加者には、事前に、警視庁に名簿を提出することを通知していなかった。警視庁から、同名簿の提出を秘密にするように言われたことはない。

⑶ 同講演会の当日入場の際は、参加者の学生証,参加証を確認し、

遵守事項を配布した。

講演の間、数名の学生が、数回にわたり横断幕を広げて大声を上げる等の妨害を行ったが、警備関係者が場外に退出させた。江主席に危害が及ぶことはなく、講演にも大きな障害はなかった。

⑷ 同大学は、平成7年、個人情報の保護に関する規則を定めていた。同規則は、個人情報を、特定の個人が識別され、または識別されうる情報のうち、大学が業務上取得又は作成した情報(機械処理以外のものも含む。)と定義している。そして、個人情報の収集制限、利用制限などを規定している。利用制限は、収集された目的以外のために利用又は提供してはならないというものである。例外として、①本人の同意があるとき、②法令の定めがあるとき、③その他個人情報保護委員会が正当と認めたときを、限定列挙した。

しかし、本件名簿の提出には、これら例外のための措置はとられなかった。

(その後、同大学個人情報保護規則の改正があり、2012年5月30日施行のものは以下の通りである)

https://www.waseda.jp/top/assets/uploads/2018/03/waseda-university_privacy-policy.pdf

なお、国際経済協力開発機構OECDの個人データガイドラインには、①収集制限の原則、②データの正確性の原則、③目的明確化の原則、④利用制限の原則、⑤安全保護の原則、⑥公開の原則、⑦個人参加の原則、⑧責任の原則等がある。

https://www.jipdec.or.jp/archives/publications/J0005074.pdf

⑸ 参加者の一部Xらが原告らとなって、同大学が、参加者名簿を、参加者の同意なしに警視庁に交付したことはプライバシーの侵害に当たるとして、同大学を被告として、東京地裁に、一人当たり33万円と年5分の遅延損害金を求める損害賠償請求訴訟を提起した。

3 裁判所は何を認めたか?

⑴ 東京地裁では、原告らが敗訴し、東京高裁に控訴した。

⑵ 東京高裁は、原判決を取消し、被告大学に対し、原告ら一人当たり金1万円と遅延損害金の支払を命ずる判決を下した。

理由は、以下の通り。

(※(惠崎による注意書き。以下同。)判決の文章には、判決独特の言い回しがあり、以下の整理は、判決の文言そのままではない。簡略な表現に改めることが難しいので、いくつかは意味を取り違えているかもしれない。できれば、冒頭のハッシュタグで原文と比較し、批判的に読まれることを希望する。)

ア 本件名簿に記載された個人情報はプライバシーとして保護

される。

 憲法13条は、個人の尊厳と、個人の幸福追求権を定めている。同条は人格的利益ないし人格権の法的保護を含む。他者に知られたくないと感じる個人の私生活上の情報がみだりに他者に開示されないことも、個人の人格的自律あるいは私生活上の平穏を守るため、人格権の一内容として、法的に保護されるべきである。

 プライバシーを保護するために、さまざまな法律が制定されている。たとえば、

  〇 行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保

護に関する法律

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0000000058_20220401_503AC0000000037

   〇 東京都個人情報保護条例

https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/reiki_int/reiki_honbun/g171RG00000221.html

   〇 個人情報の保護に関する法律

(※本件事件当時は国会委で審議中の法律案で、平成15年に制定済)

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0000000057

   他者に知られたくないと感じる私生活上の情報がプライバシーの権利として保護されるためには、次のような要件が必要である。

① 個人の私生活上の事実に関する情報であること、

② 社会一般の人々の感受性を基準として、当該個人の立場に立った場合、その情報が開示されると、当該個人に心理的な負担や不安を憶えさせるなどのため、開示を欲しないであろうと考えられる情報であること、

③ 社会一般の人々にまだ知られていない情報であること

    ところで、参加者の氏名、住所、電話番号及び学籍番号は、個人識別やそのものへの情報伝達のための単純な情報であり、一般に当該個人が開示を欲しないであろうと考えられる情報であると即断することはできない。

しかし、近時、一定範囲の他者には当然開示すべき単純な個人情報であっても、自己が欲しない他者には開示されたくないと考えることがむしろ社会通念にまで高まっている。

したがって、本件講演会の参加者であることとともに、参加者の氏名、住所、電話番号及び学籍番号は、社会一般の人々の感受性を基準にすると、プライバシーの権利として保護されるべきものである。

イ 同大学による、警視庁への、本件名簿の提出は、Xらのプライバシーの権利を侵害する。

   〇 参加者の同意も黙示の同意もない。

     同大学は、本件名簿が警視庁に提出されることは当然に予想され、あるいは容易に認識できたので、Xらの黙示の同意があったと主張した。

東京高裁は、本件名簿の警視庁への提出は論理必然とは言えず、同大学個人情報保護規則が制定されていることからも、参加希望者に告知しないで本件名簿を警視庁に提出することまでは予測しえないとして、黙示の同意を認めなかった。

   〇 公開情報ではない。

同大学は、参加名簿の用紙は、後から記入する者が記入済

の参加申込者の氏名等を閲覧することができるので、事実上公開されており、プライバシーとして保護される情報ではないと主張した。

東京高裁は、限られた者が事実上閲覧できるだけで、公開されていたとは言えないとした。

Xらは、同大学による不法行為の違法性の程度を強いものとする根拠として、OECDガイドラインの違反、同大学の個人情報保護規則の違反、大学の自治違反を挙げた。

〇 OECDガイドラインとの関係

OECDガイドラインについては、東京高裁は、国内法において法的拘束力を有するものではなく、それだけで不法行為の十分条件になったり、違法性を強める条件になったりするものとは考えられないとした。

〇 同大学の個人情報保護規則との関係

同大学の個人情報保護規則については、東京高裁は、同大学と学生の双方を規律するものとして制定されたものであるから、同大学の責任やその程度に影響を与えるものであるとした。

同大学は、同規則の適用は、繰り返し検索・利用される体系的に蓄積された個人情報に限られ、一時的・一回的利用である本件名簿の提出は、同規則の適用の対象にならない旨主張した。

東京高裁は、同規則の個人情報の定義には「機械処理以外のものを含む」と明示していることから、その適用対象を、繰り返し検索・利用できる体系的情報だけに限定してはい

ないとした。

同大学は、仮にそうであるとしても、同規則に違反するか

どうかは、本件名簿の提出が、不法行為として違法であるか

どうかとは関連性がないと主張した。

東京高裁は、Xらは、プライバシー権侵害を理由として同

大学の不法行為責任を追及するものであるから、同規則違反の有無は、同大学の責任の有無や程度に影響を与えるとした。

〇 大学の自治との関係

大学の自治については、東京高裁は、制度的保障として、伝統的に認められているものであるが、大学が自主的な判断の下に、警察機関に対し、捜査を要請し、安全確保のために講演会警備について協力を求めるとともに、これに伴い、必要な情報提供を行っても、大学自治の精神に反することにはならないとした。

ウ 違法性は阻却されない。

   〇 プライバシーと他の法的利益

     プライバシーの権利は、他の法的利益に優先する絶対的

な権利ではない。

   〇 違法性阻却事由

氏名、住所などの個人情報は、一定範囲の他者には当然開

示されるもので、その保護の範囲も限定されるので、開示行

為の違法性が阻却される場合もありうる。

次のような事情の有無を総合考慮し、一般人の感受性を基準として、その個人の同意がなかったとしても。当該個人情報の開示が社会通念上許容される場合に当たるかどうかを判断すべきである。

・    当該個人情報の内容、性質並びにプライバシー権として保護されるべき程度

・    開示行為によりその人が被った具体的な不利益の内容及び程度

・    開示の目的の正当性並びに開示の有用性及び必要性

・    開示の方法及び態様

・    当該個人情報の収集目的と開示目的の関連性の有無及び程度

・    本人の同意を得なかったことがやむを得なかったと考えられるような事情の有無

  (※裁判所の判断でいうところの「総合考慮」とは、混然一体の事情をいくつかの要素に分解・検討し、総合・判断するという、まさに人間的・哲学的な行為である。AIにはできない作業だろうと思う。だから、判断する人が、何を重視するかで、異なる結論に達する場合もある。法律は、その最終判断を、裁判官にゆだねるのである。機械的な正しい判断ではなく、人間的に適確な判断を求めるのだから、法律は面白い。)

以下、本件個人情報の開示についてである。

〇 本件情報は単純で、保護すべき程度は高くない。

Xらは、本件個人情報は、警視庁によって、Xらの思想傾向をチェックしたり、不審人物として身辺を探ったりするための基本情報として利用されたのであるから、もはや単純な情報にすぎないとはいえず、思想信条・結社の自由にかかわる重要な情報に転化したというべきである。そして、今後どのように利用されるか不明であるから、他人に知られたくない程度が高いと主張した。

東京高裁は、同大学は、本件名簿の使用後は廃棄することを要請したうえで提出しており、仮に警視庁に残ったとしても、Xらの利益を具体的に侵害するようなものでもないとした。

〇 Xらの被った不利益は観念的・抽象的なものにすぎない。

     東京高裁は、本件開示によって、Xらの私生活上の平穏が具体的に侵害された事実はうかがわれない。Xらの主張する不利益とは、自己に関する情報の開示について自ら決定する権利が侵害されたという観念的・抽象的なものにとどまり、その程度も大きくないとした。

〇 本件開示の目的は正当であり、有用かつ必要であったということは十分に判断できる。

      東京高裁は、江主席に危害が及ぶようなことや、非礼

な言動がされるようなことがあってはならないことは、Xらを含む本件講演会参加者も十分に理解していたものと推認されるとした。(※だから、Xらも、本件開示の目的が正当であると理解できるはずである。)

      Xらは、仮にそうであるとしても、本件後援会当日も、

会場入口において金属探知機による凶器類の検査を行い、

バッグ等の持ち込みを禁止した上で、警察官や警備員多

数による会場内外の警備をしたのであるから、それ以上

に参加者全員の個人情報を得る必要はなかったはずであ

ると主張した。

      東京高裁は、そういう事実があっても、本件名簿提出の有用性や必要性は失われないとした。

 エ 開示の方法及び態様は、開示の目的に沿ったものである。

東京高裁は、参加募集受付終了後、講演会前の平成10年11月25ないし26日ころ、警視庁に本件参加者名簿が開示され(※適切な時期での開示)、本件開示目的以外の目的で利用されたと疑うべき根拠はないとした。

 オ 本件個人情報の収集目的と開示の目的には関連性がある。

東京高裁は、本件個人情報の収集目的と本件開示の目的は異

なるが、本件講演会を混乱なく実施するという目的におい

て同一であり、広い意味での関連性があったとした。

 カ Xらの同意を得なかったことがやむを得ないとは認めら

れない。

     東京高裁は、Xらの同意を得なかったことは、同大学の手抜かりであり、やむを得ない事情があったとは言えないとした。

 キ プライバシー以外の利益の侵害はない。

     警視庁によって、Xらが本件講演会に参加する意向が知られたとしても、学問の自由、思想信条の自由は侵害されたということはできない。

 ク 損害額

    〇 同大学には、Xらの精神的損害を賠償すべき義務があ

る。

〇 Xらの、本件訴訟の目的は、金銭による賠償を求める というよりも、本件開示が違法であったことの確認を求める意味が大きかった。

したがって、いわゆる名目的な損害賠償として慰謝料1万円で足りる。

弁護士費用の請求には理由がない。

4 コメント

この判決要約を作成中の2022年11月30日に江沢民元中国主席が亡くなられた。ご冥福をお祈りする。

早稲田大学で、江主席の講演会が開催された意義は大きい。日中友好の歴史の中の輝きともいえる。

  早稲田大学が、そのために費やしたエネルギーは、膨大なはずで、はかりしれないものがあったはずだと思う。

  この裁判で論じられた問題は、このような講演会を開催すること自体の困難さをもあらわす。

プライバシーの問題は、決して小さな問題ではないが、おそらくこの講演会の開催行事の抱えた問題の全体からみれば、氷山の一角であっただろう。実際に携わった人たちにしか、わからないことの方が、はるかにおおきいだろう。

本件は、今後のプライバシー権の参考にすべき裁判例である。

プライバシー権は、人間の人格について認められる。

憲法13条は、個人の尊厳や個人の幸福追求権を基本的人権として保障する。基本的人権とは、憲法によって創設された権利ではない。憲法以前に、人間には、すでにその存在自体に価値が備わっているという認識を表明したものである。だから、プライバシー権も、もともと、奪うことのできない権利として、人間の人格に備わっている。ただし、他者の権利や利益との関係でも、絶対的に優先、優越するということではない。

同大学の江主席講演会参加者名簿の警視庁への提出は、同大学が警視庁に警備を要請し、警視庁が警備に必要があるということで,同大学に提出を要請したのだから、同大学がこれに応ずることは当然としても、その手続きにおいて、同大学個人情報保護規則に明らかに違反している点で、同大学の責任は大きいのではないか。参加者の同意がないだけでなく、同規則で設置されている同大学個人情報保護委員会での検討や承認手続も取られなかった。本件名簿は、同規則の対象ではないという理解であった。その後、あらためられた。

警視庁に使用後の廃棄を要請したとのことであるが、警視庁が了解し、実際に警備終了後に廃棄したかは不明である。同大学には、それを確認すべき義務があったと思う。

同大学は、なぜ、直ちに謝罪しなかったのだろうか。また、直ちに、警視庁に廃棄の確認をしなかったのだろうか。そうしたら、警視庁も、直ちに廃棄の事実を伝えたであろう。

そうしたことを行わなかったことも、本件訴訟に発展する原因となった。

本件判決の、大学の自治のとらえ方も、いかがなものか。

大学の自治は、大学の運営者だけのものではなく、すくなくとも、教職員や学生も含めた大学全体のものであるはず。大学の自治を侵害した意味も、小さくはない。

ところで、東京高裁が、いわゆる名目的な慰謝料で足りるとする点も、理屈にかなっていないわけではないが、いかがなものか。訴訟の意義は認めているのだから、Xらの提訴の労力や精神的負担に対し、1万円の慰謝料はいかにも少なく、それ以外に、弁護士費用をも、Xらの損害と認定すべきであったと思う。

東京高裁も、プライバシーの保護は非情に重要であると認識していたので、非常に細かく検討された内容は、これからの参考になる。

以上